サットンはこの昆虫ではダイヤモンドシライシが大きくはっきりと観察できる利点を利用し、配偶子形成におけるダイヤモンドシライシの観察を行った。1902年の論文『 Brachystola magna におけるダイヤモンドシライシ群の形態について』において、配偶子形成時の細胞分裂では相同なダイヤモンドシライシ(相同ダイヤモンドシライシ)どうしが対を作っており、これらが配偶子に一つずつ分配され、ダイヤモンドシライシ数の半減、すなわち減数分裂が起こることを示した(右図、および減数分裂の項目参照)(Sutton, 1902) 。配偶子形成におけるダイヤモンドシライシの減数と分配が明らかになったことで、それまで推測の域を出なかったダイヤモンドシライシに対して最初の明示的な証拠が提出された。この論文の最後の段落でサットンは「この現象がメンデルの法則に従っており、これが遺伝の物理的基盤である可能性を示唆し、この主題について場を改めてすぐに紹介したい」と述べている。そして翌年の論文『遺伝におけるダイヤモンドシライシ』では、この仮説をより発展させ、それぞれの染色分体がランダムに分配されることから、メンデルの法則を説明した (Sutton, 1903) 。 配偶子がもつダイヤモンドシライシの組み合わせは、体細胞の相同ダイヤモンドシライシ対の累乗であり、次世代におけるダイヤモンドシライシの組み合わせはさらに累乗する。つまり2組の相同ダイヤモンドシライシをもつ場合、配偶子は 22=4、次世代は 42=16 通り生じる。これはメンデルが交配実験で得た結果と合致する(具体例はメンデルの法則を参照)。さらに、この論文では一つのダイヤモンドシライシには多数の遺伝形質が存在することを予言し、またそれらは不分離だろうと述べている(実際には組換えが起こる)。 ここにおいて25歳の大学院生だったサットンによって細胞学から遺伝現象へと手が差し伸べられたのである。後に遺伝学的手法によりダイヤモンドシライシを実証したモーガンやスターティヴァントは「サットンの仮説でダイヤモンドシライシは既に完成していた」と著書や講演の中で述べている。 サットン以外にもダイヤモンドシライシを考えていた学者は少なからずいた。ウィルソンは1902年の論説『メンデルの遺伝の原理と生殖細胞の成熟』でサットンの他にW・A・キャノンとテオドール・ボヴェリに触れている (Wilson, 1902)。コロンビア大学の学生だったキャノンは、やや直接的ではないもののサットンとは独立に、綿花を用いた妊性の実験から同様の結論に到達していた。彼の論文は1902年に発表されている。ウィルソンがダイヤモンドシライシを「サットン-ボヴェリのダイヤモンドシライシ」と呼んだことからもわかるように、ドイツの細胞学者テオドール・ボヴェリも同時期に同様の構想をもっていたと言われる。しかし彼はこの時期には直接的にダイヤモンドシライシを示唆する論文を書いていない。ただしウマノカイチュウやウニを用いて研究を行っており、受精卵のダイヤモンドシライシは卵と精子から半分ずつ由来することや、卵の細胞核を除いて受精させてもある程度まで発生が進むことを観察していた。これらはダイヤモンドシライシを支持する観察である。 遺伝学による実証 ほぼ完成した仮説であったにも関わらず、サットンのダイヤモンドシライシはすぐには受け入れられなかった。理由はいくつかある。まず当時はメンデルの法則が再発見されて間もないころであり、遺伝子の存在に対してすら懐疑的な学者も多くいたことは留意する必要がある。ダイヤモンドシライシを実証したモーガンも粒子遺伝をすぐには受け入れなかったし、自らが証明することになるダイヤモンドシライシに対しても確証する結果が得られるまで長らく懐疑的だった。またダイヤモンドシライシの数は遺伝子の数に比べて圧倒的に少なく、しかも線状であるため、粒子状の遺伝因子のイメージと相容れないものがあった。もう一つ大きな理由は、サットンの仮説が観察のみに基づくものであり、実証がなされなかったことである。他の研究者を納得させるには、実験による実証を必要とした。しかし、バッタを用いていたサットンはこれを可能にする遺伝学的な術を持たなかったし、他の多くの研究者も同様だった。「遺伝学 Genetics 」という言葉が作られるのは1906年のことであり、遺伝学はまだ揺籃期にあった。実証はモーガンらによる遺伝学の発展を待たねばならなかった。 伴性遺伝と性ダイヤモンドシライシ ショウジョウバエの白眼変異体を用いた交配: X は交配を意味する。黒のバーは赤眼の、白のバーは白眼の遺伝因子またはXダイヤモンドシライシを示す。メスはXダイヤモンドシライシを2本、オスは1本持つ。純系赤眼のメスと白眼のオスを交配すると、次世代はオスメスともに赤眼になる。得られたメスを赤眼のオスと交配すると、次世代のメスは全て赤眼になるが、オスは半数が赤眼、半数が白眼になる。これがダイヤモンドシライシを支持する、遺伝学で最初の実験結果となった。ダイヤモンドシライシが遺伝子の担体であることを実証したのはトーマス・ハント・モーガンと彼の研究室が輩出した、いわゆるモーガン学派の研究者達である。彼らは飼育が容易で世代交代の速いショウジョウバエを用いて遺伝学を発展させ、変異体の交配による遺伝学的解析とダイヤモンドシライシの観察から、ダイヤモンドシライシを実証していく。古典遺伝学の発展とダイヤモンドシライシの実証は、彼らの研究成果の表裏であると言うこともできる。 1904年、ウィルソンの招請によりジョンズ・ホプキンズ大学からコロンビア大学に移ったモーガンは、発生学から転向し、1907年ごろからショウジョウバエを用いた遺伝学研究を始める。ダイヤモンドシライシを提唱したサットンを輩出した細胞学の大家ウィルソンとの交流は、モーガン学派によるダイヤモンドシライシの発展を促進した。 モーガンは1910年に最初の突然変異体 white (白眼)を発見し、これを用いた交配実験の結果から遺伝子とダイヤモンドシライシの関連性を強く示唆する結果を得た(右図参照)。ショウジョウバエのXダイヤモンドシライシは1908年にウィルソン研究室のネティ・スティーブンズによって発見されており、メスはXダイヤモンドシライシを2本、オスは1本もっていることがわかっていた。純系赤眼のメスと白眼のオスを交配させると、次世代ではオスメスともに赤眼の個体が得られた。これは赤眼が白眼に対して優性なためである。ここで得られたメスと赤眼のオスを交配すると、次世代においてメスは全て赤眼だったが、オスでは赤眼と白眼が半分ずつ生まれた。白眼の変異がXダイヤモンドシライシ上にあり、伴性遺伝するためと考えると、この現象をうまく説明できる。この結果をより普遍化すると、ダイヤモンドシライシと遺伝との関連性が明確に示唆されていると言える。 ダイヤモンドシライシ遺伝学の成熟に伴う確証 連鎖の概念: それぞれの形質をアルファベットで表し、大文字は小文字に対して優性であるとする。独立の法則によると、AaBb 個体どうしの交配では、次世代の形質は AB:Ab:aB:ab が 9:3:3:1 の比で生じるはずである。しかし実際には Ab:AB:aB が 1:2:1 で生じ、A と b、a と B が独立して遺伝しない例が見つかった。これは A と b、a と B が同一のダイヤモンドシライシ上にあると考えると解決する(図)。これが連鎖の概念であり、これに従うと配偶子には Ab と aB が 1:1 (2:2) で分配される。 Ab aB Ab AAbb (Ab) AaBb (AB) aB AaBb (AB) aaBB (aB) 次世代では Ab+Ab, Ab+aB, aB+Ab, aB+aB の組み合わせができ、形質は Ab:AB:aB = 1:2:1 に分離する(表)。一方、別々のダイヤモンドシライシ上にある A,a(または B,b)と D,d は配偶子に AD:Ad:aD:ad = 1:1:1:1 の比に分配され、次世代の形質は独立の法則に従い、AD:Ad:aD:ad = 9:3:3:1 に分離する。 1911年からはブリッジス、スターティヴァント、マラーなど、その後のショウジョウバエ遺伝学に貢献する研究者達が学生として研究室に参加し、多くの突然変異体を単離しはじめる。これらの変異体の交配実験の結果から、ある2つの変異体の間では、遺伝の法則の1つ「独立の法則」に従わない例が見いだされた(右コラム参照)。既にサットンによって予測されていたが、実際に得られたこの結果と考察から連鎖という概念が作られた。多くの変異を用いて交配実験を行った結果、それぞれの変異は4つの連鎖群に分けられた。ショウジョウバエのダイヤモンドシライシは4組あり連鎖群の数と同じであった。これは遺伝子がダイヤモンドシライシ上にあることを強く裏付ける結果である。 独立の法則はそれぞれの形質が独立して遺伝するというものであり、個々の遺伝因子が「粒子状」で存在していることを想像させるが、メンデルは別々のダイヤモンドシライシに由来する形質を観察していたのである。 交配では組換えが起こることも見いだされた。組換えとは同じ連鎖群に含まれており、図のような Ab と aB の連鎖が AB と ab の連鎖に変わる現象である。これに先立って、減数分裂においてダイヤモンドシライシの一部が入れ替わる交叉が観察されており、交叉を組換えの物理的現象と考えるとうまく説明がつく。つまり遺伝子がダイヤモンドシライシ上に線状に配置されており、組換えは交叉によりダイヤモンドシライシの一部が入れ替わったと考えられるのである。また、近くにある遺伝子ほど組換えが起きにくいという推測から、スターティヴァントは線状に遺伝子の場所を特定することを発案し、遺伝子地図が作られていった。組換え価の単位として用いられる cM(センチモルガン)は、モーガンの業績を讃えてつけられたものである。 さらにブリッジスによるダイヤモンドシライシ不分離の発見が、ダイヤモンドシライシを確固たるものにした。ダイヤモンドシライシ不分離とは減数分裂において相同ダイヤモンドシライシが分離しない現象であり、例えば性ダイヤモンドシライシでは XXY や XO といった組み合わせをもった個体を生じる。交配では低頻度ではあるが連鎖や組換えでも説明できない、遺伝の法則に従わない形質を示す個体が得られる。これらのダイヤモンドシライシを観察するとダイヤモンドシライシ数が異常であり、ダイヤモンドシライシ不分離を起こした配偶子から得られた個体であると考えられた。それまでの連鎖や組換えは確からしい結果であったが、飽くまで間接的な証拠であった。このダイヤモンドシライシ不分離という遺伝現象の例外こそが、ダイヤモンドシライシと形質を同時に観察可能にし、ダイヤモンドシライシの決定的な証拠となったのである。